京極夏彦 百鬼夜行シリーズ
姑獲鳥の夏
冒頭でいきなり京極堂が脳や心について長い能書きを垂れる。曰く、脳と心は別物で、心は内部にある理屈に合わないものである。脳には心を外の物理法則に従う世界を繋ぐ役割があり、脳と心がコンタクトする場所が「意識」である。
この作品で印象に残っているのは、このあたりから既に使われている「胡乱 うろん」という言葉。「正体の怪しく疑わしいこと」を示す。
京極は、続いて潜在意識の説明に入る。すなわち、脳には本能を司る動 物的な部分がある。しかし動物は意識を言語化する能力がないために、この意識も明瞭でない。この古い部分の脳と心がコンタクトする場が潜在意識であり、これは意識に比べて胡乱である、とのこと。この潜在意識に加えて、関口自身の動揺した様子も胡乱である。
この長広舌が、「すぐそこにある死体が見えていなかった」というオチの伏線になっていると同時に、京極の憑き物落としの方法にもなっている。いま読んでみると、なかなか考えられた導入のように思える。
寺島良安『和漢三才図会』のうぶめ (Public domain)。普通の鳥みたいでかわいい。男が見るうぶめは女の、女が見るうぶめは赤ん坊の、音だけのうぶめは鳥の形をしており、それらが同じものとして認識されていた、との説明がある。
他の絵は怖いので、クリックで展開するようにしておいた。
うぶめは「産女」とも書き、「お産で死んだ女の人の無念」という概念を形にしたものらしい。「姑獲鳥」という漢字を使うこともあるが、これは本来「こかくちょう」という中国の妖怪。女児をさらって養女にする性質がある。これがうぶめと混同されたと書かれている。
もう一つ印象に残っているのは、これも本作のキーワード「この男は癲狂院から逃げてきた、狂いだよ」。非常におどろおどろしい感じのする言葉で、戦後の混沌とした状況が頭に浮かんでくるようだ。巣鴨にあったらしいが、跡地はいまどうなっているのだろう。
「憑物筋」の民俗学的解釈というのも、初めて読んだときには新鮮だった。農村に経済格差などの理不尽な現象がみられるようになってきた時代に、それを解決する方策として憑物が考えられた、とのこと。
魍魎の匣
「いますか – ?」「おる」「も、もうりょう」のやりとりが印象深い、穢れ封じ御筥様 (けがれふうじ おんばこさま) の出てくる作品。榎木津の滅茶苦茶な探偵ぶりも楽しめる。
一方で、魍魎 (もうりょう) や霊能者・宗教者などに関する京極のうんちくは、前作よりもいまいち訴えてこなかった。魍魎の解釈も難しい。そもそも人に憑くものではなく、境界にいるもの。「あちら側」という言葉がこの作品で多用される。
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