東方教会・西方教会とは
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このページの最終更新日: 2024/07/13東方教会・西方教会とは
東方教会・西方教会、ファンタジーでしばしば出てくる言葉である。なんとなく異国情緒に溢れ、どこかノスタルジックな雰囲気もあり、ファンタジーの魅力を増してくれる。
覚えているなかで、東方教会・西方教会が出てくるのは、まず アルスラーン戦記。キリスト教を意識した宗教、イアルダボート教に、異なる宗派として東方教会・西方教会がある。
アルスラーン戦記より。
これは、もともとはキリスト教の歴史に基づく言葉である。英語では「教会 church」ではなく、「キリスト教 Christianity」を使い、Eastern または Western Christianity という。この本などが面白くて参考になる。
キリスト教の東方教会・西方教会
ローマ帝国は、西暦 313 年にキリスト教を公認。392 年には国教としたが、テオドシウス 1 世の四死後 395 年に東西に分裂した (図は文献 1 より)。その後、西ローマ帝国は 476 年に、東ローマ帝国は 1453 年に滅亡した。
分裂前、ローマ帝国は東西で合同の公会議を開き、教義の解釈のすり合わせなどを行っていたが、分裂によってそれが不可能となり、解釈がだんだんと異なっていった。これが東方教会・西方教会の起源である。
非常に単純化した表であるが、両者には以下のような違いがある。
東方教会 (ギリシア正教) |
西方教会 (ローマン・カトリック) |
|
言語 |
ギリシア語、布教の際には現地の言語を使う |
ラテン語以外は認めない |
政治と宗教 |
リーダーが一致 (皇帝教皇主義) |
リーダーが異なる |
世界の歴史に大きな影響を及ぼしたのは、西方のローマン・カトリックであった。日本にやってきたことで有名なフランシスコ・ザビエルも、ローマカトリックである。
西方教会が発展したのは、ラテン語に固執したことが大きかったようだ。東方教会は布教に現地の言葉を認めたため、教会が細分化してしまったが、西方教会は政治的な勢力圏を超えてネットワークを構築。煉獄、地獄などの概念を宣伝し、教会がこれを救えるとした。結婚も神の許可で行われるものとした。これによって、封建社会において教会が必要な存在となった。この傾向は、のちの宗教改革まで長く続く。
経済的な面では、この時代に発展していたのは東側であった。330 年コンスタンティヌス帝の時代には首都もローマからビザンティウム (コンスタンティノーブルに改称、現在のイスタンブール) に移っている。東方との交易ネットワークを開発した東側は大きく発展し、西側を公式に切り捨てた。これが 395 年の分裂であった。
その後、西側は国家の防衛すらもままならないほどの経済的な苦境におかれ、ゲルマン人の侵入によって 476 年に滅亡。皇帝も廃位される。しかし、教皇はゲルマン人と協調して権力を握り、キリスト教が西側から世界へ広がっていく基盤を作る。
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References
- Geuiwogbil at the English Wikipedia, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1455678による
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